消費型オタクを生み出す構造
女性叩きと消費型オタクを産出する構造〜例のポスターやジャンプのジェンダー観等一連〜
このツイート、見る度に「分かるよ、俺もそうだもの。…でもね。」と思わずに居られない。
— きのと∃しづき (@kino8oj) 2019年11月7日
だとしたら、今のそのアニメや漫画に救われた俺達が今更無敵の人になるとしたら、それはそれらへの背信ではないのか。友であり恋人であり恩師から何を学んだのかという話にならないか。 https://t.co/2fH7Xpd8YN
引用させて頂きました。
3時半頃目が覚めてツイッター眺めてたらこの発言が目に飛び込んできて、そうそうそうなんだよ〜!と書いてたらいつのまにか2600字越えてた。140字に分けるのだるいからブログに置く。
この手の話、ツイッターでは何度か書いてるんだけど(ブログでも二回書いたな)、
ゆりかご論へのコメ返信から、出る方法へ - どこにでもいてどこにもいない
宇崎ポスターから噴き上がった女性の意見は常にチェックしていたのと、膿の噴出とも言える色々アウトな表現ややり方が可視化されて、男性達のアップデートに必要な意見も議論も出尽くしたのを見て、別の方向から見た大きな視点を添えておく。具体的な作品内容には一切言及しない。
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コンテンツは辛い時心を慰める存在となる。一定時期それに耽溺しても良いが、麻薬として消費し続ける道と、その作品の中心に位置するエッセンスを発見して拾い集める道に分かれる。
無敵の人になると主張するのは前者。作品と融合する事で自分の欠損を補ったつもりになっているが、根本的な解決にならない。
作品が古くなると入れ替える事で新鮮さを保つ。この「新鮮さ」が消費欲を刺激するので、常に新しい作品を作り続けなければならないコンテンツ界とマッチングしており、お互いの首を絞め合う結果となっている。
アニメ界、出版界は資本主義と絡み合い、常に次の作品を作り金を動かさなければ死ぬ運命、火の車である為、似た作品が量産される原因となっている。
しかしとにかく次の作品を求め続ける消費者タイプのオタクには都合が良い状況。
顧客が求めるので作るしかないが、求められるよう誘導し囲い込みする業界も共犯関係にある。
真に己を救うのは後者。作品のメッセージを発見し拾い集め、それを現実の行動に変える。主人公達の勇気を思い出し、現実の己を奮い立たせる。物語はそのように使うことができる。
登場人物への共感は、「彼らに比べて自分はどうだろう?」と客観視する材料になる。彼らの問題は自分の問題と似ている、と気づけば現実を解決するヒントとなる。一時的に依存状態となっても、このような使い方をすればコンテンツへの依存度は低く、共生関係になる。
真の意味で「作品から学んだ」「作品に助けてもらった」とはこういう事を言う。
一時的に耽溺するにも理由があり、「なぜこんなにこの物語・キャラクターに惹かれるのか」を考えると自覚の無かった自分の欠損が見える。強烈に惹かれるのは自分の発する欠損、傷がそうさせる。強いマイナスが強いプラスを求め、融合したがる。
その強烈な引力は自分を見つめるヒントとなる。それに想いを馳せることができれば、苦しみから脱出できる可能性が増す。
麻薬コンテンツは一時的に痛みを麻痺させるので楽になったと誤解するが、消費者が盲目になる手助けをする。都合の良い物語で目隠しをする。都合の良い快楽を提供し続けなければ次も買ってもらえないからだ。
その目隠しと一体化してしまうと、本当に目が見えなくなり、都合の良い物語界の住人となり、現実界の人間と対話ができなくなる。
会話が通じないのはここに原因がある。認知の歪みと言い換えても良い。無敵の人になると主張するのはこの一派である。
ゾーニングの問題を「救いを取り上げられる」と拡大解釈するのは認知が歪んでいる為。
女性を叩きたがるのは、敵がいた方が都合が良いから。自分より弱い存在ならすぐ叩けるから。
(体力などはさておき、本当は女性は全く弱く無いのだが、そのように思い込めるコンテンツに耽溺すると影響されてそうなるし、これは文化が醸成した女性軽視、蔑視の思想を作品が取り込んでいる為。作品を作る作家、編集、業界も含まれる。)
叩きも快楽であり、嘘でも良いから勝ちたい。その快楽が無いと自分を保てない。その一時的な高揚感により、己の傷を見なくて済むからだ。今回のように叩きたがるのは過剰防衛とも言える。
彼らは己の傷を直視するのを極端に嫌がる。それをしない為に消費者型のオタクになったのだから。その回避の為に金を費やしてきたのだから。現実から乖離した存在となっているのはその為である。
‘「物語が刷り込みを行う」というのは極端な発想だ。幼児じゃあるまいし、そんな事あるわけない’という発言も散見する。
だが「友人aもこう言ってたからいいか」という状況は人に影響されていると言えるのでは無いか。
例え「これは好きだけどちょっと過激過ぎるのでは」と内心感じても「友人bはアリだと言っていた」「cとdは絶賛している」と聞けば「自分もそう思う」と意見を曲げてしまうのは、人の常ではなかろうか。
そして仲間内で盛り上がることもまた麻薬であり、己の直視から遠ざかる快感の仕掛けである。(なお、盛り上がりは金を使った消費に繋がりやすく、企業はこれを大いに利用している。)
追記11/9:「内面化」という働きが自他を融合させる。他人の意見を自分の意見のように思い込む働き。ここで述べている「刷り込み」と同義。
「人がこう言ってたからいいか」を内包する大きな枠組みが、作品の思想だ。
作品はファンの間で話題のタネになり、常にその姿が是非を問われる。個人の定規により常に計られているが、確固たる規範の定規を持てない人達もおり、そういった人達は「多い方に流れる」傾向を持つ。多い方に所属していた方が「安心」だからだ。
作品の中で許されている行為は、客に都合が良ければ歓迎される。作品内で指摘し注意すれば離反を招くと作者側は考えているのかも知れない。つまり売上の減収だ。もしくはそんな考えもなく、思考停止して「今まではそれで大丈夫だったから」慣例としてそのようにするか。
企業は売り上げなければならず、作品は好かれなければならず、その為に行き着くところまで来てしまった。
ここがもう行き止まりである。
行き止まりなら立ち止まって振り返り、どこから分岐したのか省みること。それしかない。その際、指摘された意見は目隠しをとって受け取ること。
それはまるでマイナスの弱さから0地点へ立つ、自覚を得る主人公の姿なのだが、元々物語の主人公になりたかった人達なら頑張ってやり遂げてほしい。
企業は倫理に基づいて、この作り上げた共犯関係を終わらせて、新たな知を啓蒙してほしい。
日本でここまで物語が量産され、誰もが都合の良い夢の中で生きるしかないほど追いやられたのは、現実が苦しいせいである。
日本文化特有の「我慢」が最も戦犯である。
我慢は国民病であり、至る所に浮遊するカビであり、皆それを常に吸っている。
我慢は攻撃を生み出し、攻撃は傷を生み、傷は更なる弱者を求め叩く。
この構造を解決しないと、夢の住人の量産は無限に続く。
だが、手始めに痛いところを治癒するのは真っ当だ。
女性が痛がっているのなら、意見を聞いて止めるべきで、それにより傷の再生産が止まる。そうすれば我慢は大きく1つ減ることになる。
女性は人口の半数で、この人達の我慢が1つ減るのは、人間という群れの中でものすごい躍進になるのだ。
なんかまだ派生して書けそうだけど、疲れたからここらで筆を置く。