隣のバイセクシャル
メディアでは「エロい娯楽」か「実在しないネタとしての存在」として扱われ、"レズネタ"を指摘すると「ただ怒りたいだけのマウント」だと言われる。
— 松岡宗嗣 (@ssimtok) August 14, 2019
「わたし達は架空の生き物なんだよ」「ここで生きて飯食ってるなんて、露ほども思ってないんだもん」というセリフが刺さる。https://t.co/mlwNBIkktW
読んだきっかけになったので引用させて頂きました。
これを読んで思い出したこと。
高校の頃演劇部だった。もう16年も前だ。
歪みながらも人前で表現する事は楽しかった。私は役者で、男役ばかりやっていた。女子校だった。
脚本は部内の親しい友人が書いていた。「次の公演、こういう脚本どうかな?」と見せられたのがレズをコンセプトにしたネタだった。困惑した。
(ヤバイぞ。それは安易に手を出してはいけないやつだ。)
当時、私は親しい女の子に「実は私、バイセクシャルなんだ」とカミングアウトされたばかりだった。
打ち明ける際、何やら非常に言いにくそうにして色々誤魔化したりした挙句の告白だったので、バイだと言われて「なーんだ!そんなことか!」と言った覚えがある。しかしバイの意味が分からず「で、バイって何?」と聞き、彼女をズッコケさせた。
彼女は重たい生い立ちを背負っており、ほとほと散々な話を聞いてきた。その為(これより更に痛々しい話を聞く事になるのか?)と身構えてたせいだ。
それに比べりゃ、何という拍子抜け!バイ?男女どちらも好き?別にいーじゃんそんなこと。好きにやれ好きに。
「カミングアウト」という耳慣れない単語もこの時初めて聞いた。打ち明ける事で楽になるならすればいいけど、「告白する」「打ち明ける」でよくない?と少し思った。
この打ち明け話の時、彼女の隠された恋愛遍歴を教えてもらったのだった。
それを経ての、この脚本である。
女子校だから、女子同士仲は良い。性欲濃い青春時代、女同士で幻惑されるのも分かる。カッコいい先輩にキャーキャー言う事もあったし、された事もあったみたいだ。
脚本の友人は、女同士の同性愛に薄っすら憧れを持っていたようで。実際そういった仲の良さを目にしているから、というのもあるだろう。
(でもダメだ、この脚本は上演しちゃいけない。)
本能的にそう思った。少数派が理解を得るような啓蒙的内容でも無かった。興味があるから書いた。でも参考になる人は近くにいないから、リアリティを欠いたインスタントな印象の作品だった。
私は良くない点を指摘して「やめたほうがいい」と言った。この内容だと本当に「そう」な人を傷つけるから、と。この内容をあの子に見せたくない、と思った。
でも彼女は食い下がった。本当に「そう」な人を知ってるなら紹介してよ!と。
いやいや、あんたの隣にいるからね!その脚本の友人とバイの友人も友達同士なのだ。
だが彼女がそうだとは絶対に言えない。カミングアウト前、緊張した彼女の手が震えていたのをこの目で見ている。私はなーんだ!と笑ってしまったけれど。
隠すのはこの為か、と薄っすら思った。興味があって安易に覗きたい人は、当事者を傷つけるのか。だから隠さなきゃいけないと。
この時、消費するコンテンツを初めて意識した。マイノリティな性に苦悩する人がいる。そのマイノリティな性をキャラクターの属性として作品内で扱う。だがその性は、特に昇華もされず、単にアクセサリー扱いで終わる。
これで誰が得をするのか。
脚本の友人に、伝聞でバイの友人の話をする、というルートも選べただろう。そして脚本を推敲していけば、当時にしては先見の明のある脚本ができていたかも知れない。
でもそれは選ばなかった。私はヘテロだし、伝聞じゃどうにもならない。多分本人の言葉でないと意味がない。実際の苦悩は伝わらない。でも本人は隠れている。外に出ろとは言えない。こういう人から隠れたいんだろうから。
脚本を読んで、そう思った。もう印象しか覚えてないのだけど。そういう属性を持つことが普通で、おしゃれ?で、インスタントである表現だった事がずっと引っかかっていた。
性がそれほど軽ければ、マイノリティも生きていくのは楽だろう。
苦悩の果てにそうあるなら本物だが、全くの部外者がそれを書くなら紛い物だ。取材して真に迫るライターも勿論沢山いる。でもその時私は、脚本家からそういう未来を嗅ぎ取らなかった。例え打ち明けたとして、知識欲に蹂躙されるのでは、という危惧もあった。
こうして脚本はお蔵入りになった。
私はこの後も色々経験した結果、百合という表現が苦手になった。ファンタジーとして美しく描くには、あまりにもリアルな痛みを知ってしまったからだ。
美しい少女は記号だ。実在する少女は、痛みも苦しみも飲み込んだ、肉体としてここにある存在。