自分の写真が見られない

ずっと使ってきたブログだけどnoteに移行しようかと思って、ちょっとやってみた。内容同じ。
gooブログは拍手を手動で貼ってるし、どのページが拍手されたか分からないし使いにくくてな。
https://note.mu/dokonidemo/n/n109f658e5e4b

自分の顔が見られない。顔立ちが嫌いだからだ。
中高の頃はトイレの鏡が嫌いだった。くしくも全面鏡張りという私立の女子校らしい豪華なトイレ。反射で顔を背けていた。
ただ演劇部で役者だから、本番前舞台メイクをしなくてはいけない。その時は諦めるしかなかった。

自画像を描けない。高3から美術予備校に通ったが、運良く自画像のカリキュラム後に入校し、以降縁が無かった。今でも描ける気がしない。
自分をつい美化してしまうのではないかと、そしてそれを他人に見抜かれるんじゃないかと。
何の行動もしてないのに気が気じゃないのだ。

成人式は遥か昔だが、親と不仲真っ最中だった。お金も無かった。振袖への憧れは無くも無かったが、友人に袴を借りた。写真は勿論撮っていない。

自撮りという文化も大変恐ろしい。やる人は皆勇気がある。そして自分の顔を堂々と可愛く思ってるんだ。すごい事だ。

普段普通に過ごしていられるのは、忘れているように努めているからだ。
鏡を見なければ自分の姿は見えない。自分が人を見る。でも見られているその顔は自分からは見えない。見えないものは無視できる。

大人になって鏡を見慣れてきたし、化粧しなきゃ人に見せられないとか、そこまでは感じない。すっぴんで普通に外に出る。
だけど写真だけは、それだけはダメだ。
周りの自然体で堂々と写っている人達、皆きれいだなあ。羨ましい。

例えば何かのイベントやセミナーに参加している時、記録写真を撮る係がいる。それは後からレポートとして表に出る場合があって。
カメラを向けられていると感じるとさりげなく顔を下に向ける。
伏し目がちなら何とかなりそうな気がしているからだ。でもそれも後から見ると、頭をかち割りたくなる。もっと下を向いて顔の判別ができない程にすべきだったと。
余り極端に避けると「こいつそんなに写りを気にするのかよ自意識過剰なガキだな」と思われそうで逃げる事も恐ろしい。

参加したとあるイベントのレポート、沢山の記録写真が載っていてそれを見たら、悲しみが噴き出してきた。ああ、写りたくなかった。もっと拒否すれば良かった。それを「写真に自然体で写れる程自分を受け入れられてるぜ」とか大人のフリをして。
私は大人なんかじゃ無かった。
自分の顔を認められない、自意識過剰で歪んだ思春期の少女だった。

この歪みきった自意識の原因は分かっている。母親のいちゃもんだ。
「団子鼻で可哀想」「奥二重だけど殆ど一重で気の毒」「鼻が低い」「まぶたが腫れぼったい」「地味」
小さな頃から散々貶され続けてきた。
おそらく客観的に見て、私は平凡な顔だと思う。何が特徴的とも言える形をしていない。
パーツ1つ1つとっても、親が言うほどまぶたが厚いわけでもないし、鼻が低いわけでもない。
地味で奥二重なのは本当だけど。

でも自分で「私はブサイクだ」と、確固たる信念として信じ抜いてきた。
だがその信じてきた親の意見が本当に正しいのか?そのまま信じ続けるのか?

自分への認識改革が、数年前から着々と進んでいる。
そして人から愛を貰う事にも慣れてきた。
彼氏はこんな顔でも可愛がってくれる。どんな行動を取っても、子供のようにふざけても、甘えても、それこそが「愛おしい」のだと。

顔は人間の要素の中でほんの一部分。人付き合いにあたっては性格、振る舞いこそが主。なのにカメラに写る顔に囚われて、苦しんで、自分が何か変なのは気づいている。
ただ、人からの愛を虚空に流さず受け止められるようになってきて、重心が安定してきた。
でも悲しみは止まらない。
同時に、2つの意識を抱えている。
親の意見を信じ込んできた過去と、変革を乗り越えてきた今が並び立つ。
2つの潮流がぶつかって大波が立っている。

さあ、どちらに肩入れする?
今の私はどちらを選ぶ?

母親が間違っているのは、もうとっくに分かりきっていた。
先生が教えてくれた。
娘への顔へのいちゃもんは事実無根の中傷で、私が傷つけば彼女は御の字。
なぜなら母親自身が、自分の顔も性格も大嫌いなのだ。
発言全てはブーメラン。この醜い顔では苦労するよあんた。一人で幸せにはさせない。先に叩き潰しておく。
そのための中傷。それは本能的なもののようだ。
足引っ張りをする為に、常に自分と娘を呪い、墓穴を2つ掘っている。

「まんまと傷つけられ続けてるってことに気がついてね。何十年も。
母親はあなたにも同じ茨の道を歩ませたかったんだよ。
自分を嫌って呪って生きる道。ひねくれて孤独で誰とも繋がれない道。
そうなるように、自信なんか持たないようにしつけてきたの。」

愕然とした。
顔のことだけは、それだけはどうしても傷が深くて深くて、手当が後回しになっていた。やっと直視できた。
なーんだ、私が劣等感の塊で、写真1つで落ち込む事ができるのは、母親の狙い通り!
そんな悔しい事があるか。この痛みは不当で、間違っている。

幸せになりたい。それは「足るを知る」だと解答はもうとっくに出ている。臨済録とか知恵ある本には大抵それが書いてある。外に求めても何もない。全ては自分の内側に「ある」。「ある」ことを知れと。
だが知っていても、腑に落ちて実践できるかは全く別だ。
そりゃ満足したいさ、いつだって。
でもこの飢餓感はどう考えても程遠い。なんでこんなにブサイクなんだろう。他の人達はなんて美しいんだろう。
でも、でもその「ブサイク」という前提条件が崩れたなら。
満足に至る道にそびえる強固な障壁が、瓦解しようとしている。

自己憐憫は甘い蜜だ。
このまま母親の中傷を信じ続ける事だってできる。写真を撮られる度にさり気なく俯いて、死ぬまで見ないふりを。そして傷を蓄積していく道。
それはジャンクフードのように中毒性がある。
常に言い訳を必要とする、謙遜と自己嫌悪と取り繕いの世界。
でも、愛される喜びを知りつつある。私を愛し、褒めてくれる数少ない人達、先生や彼氏。数少ない暖かい人達。その人達の意見を信じたい。
信じたっていいじゃないか。
居心地のいい信頼できる人達を、自分が選べるようになった。その人達が価値を認め、褒めてくれる自分自身を、なぜそこまで貶さなければいけないのか。
堂々と振舞ってみたい。そんな風にできたらどんなに幸せだろう。幼稚園の頃から、そういう人達が羨ましかった。憧れと嫉妬を持っていた。

だから、ずっと信じ込んできた親の嘘を捨てる事にした。
私は可愛くて愛される価値のある人間であると。少なくとも顔は普通で、醜くなんかない。苦労などあるわけないと。そう信じる事にした。

今までだったら、絶対にジャンクルートを選んでいた。新たな分岐を選べたのは、対極に別の蜜がある事を知ったからだ。
それは滋養のあるご飯とでも言うべき、時間をかけた信頼の積み重ね。
新たな選択肢を作るには、一人では無理だった。人の力が必要で、それを求めたから、新たな選択肢が現れた。

ちょっとこっちの道を行ってみるよ。
自分を嫌うのにもう飽き飽きしていたから。
どうせ死ぬなら「自分を好きでいる」っていう経験だってしてみたい。
それを味わわないで何が人間だ!
この世は舞台だ。どう踊っても転んでもいい。
「私」という役柄はどんな変化にも対応可能。ブス役はもういい。恥じ入り苦しむ役はもうしたくない。
だから笑われてもいいから、堂々として、スッと立っている人を次はやってみる。
あわよくば子供のようにふざけたいし、変な踊りも踊りたい。下手でいいから歌いたい。それを人に見られても恥ずかしくない。ケロっとした顔をしていたい。
そんな風に自由に振舞えるようになったら、見える世界がもっと鮮烈に、より強い記憶になるんだと思う。写真なんか目じゃないほどに。