中悟
七月始まりに、ぶわーーーっと膨大な記憶が巡り、体験が熟成して拠り所となった感覚で、わかったーー!と思った。
それをどうにか書き留めておきたかった。読む人には意味不明かも知れないが。中悟だと謙虚に言っておこう。
占いとの関わり方が確実に変化した。情報や知識なんて、要らないや。
例えば蠍座だろうが、子牛天中殺だろうが、大安仏滅一粒万倍日だろうが。
全部全部、ウッルッセーーー!!と思うようになった。
情報によって縛りを受ける事は限りなく馬鹿らしい。それは自分にとって本当に正しいのか。信じる価値がある情報なのか。
私は自分の気分を最も尊重したい。だから余計な情報は要らない。
25歳の頃、石井ゆかりさんの蠍の本、大層世話になった。よくわからなかった自分の形が理解できた。同時に全く意味不明だった初めての彼氏(モラハラ)が自分とは全然違う行動原理で動いてる事を理解できた。
しいたけさんの占いにも同時並行ではまった。芸能人や著名人に全く興味が無く、そういう話が多くて段々離れたけど。マス向けなんだな、と思った。おいら完全なるマイノリティ。
石井さんしいたけさんの年報、上半期下半期、いつも楽しみで、同居してた頃は友人と、一人暮らしになっても1人で読んでた。
当たってる事が多かったので、見えてる人だなあと思ってる。
なんとなく星座占いが一致しないと感じていた頃、明日香天翔さんを見つけてフォローした。何かが変化して今までの波長が合わなくなったら別のチャンネルに切り替えると一致する人がいるようだ。
ただ、私が会社を辞めてどんどん独自のワールドに引きこもった為か、どれもこれも全くピンとこない。
当たらないというか、人と関わりを殆ど絶ったので、外面的には何も起きないのだ。ただ自分の中だけが著しく変容していく。
一口に蠍といっても、100万人単位でいる筈だ。知らんけど。その中でバリバリやってたキャリアをぶち抜き捨て、完全な与太郎と化した私と、働き学ぶ社会適合な人々。そりゃ当たらないよ。無理もねえ。
同時に、未来を読む事に興味が無くなってきた。私は自分の中はゆっくり目まぐるしく変化しているけど、対外的に何かしてるわけではない。
麗しい言葉に期待するとガッカリする。当然の話だが。
これは、未来を楽しみにするための言葉だ!これで希望を持てるんだ!
希望がなきゃ生きていけないよ、こんな辛い世の中。だから占いは流行る。皆希望が欲しいんだ。
私は寧ろ、未来を見ないようにしている。今しか見てない。だから計画立てるとか、ウルセーーー!と思う。
私の中身はそういうのが特に不得手のようだ。気ままに動く事が一番心を損なわない近道で、結果的に回り道になるかも知れないけどそれでいいのだと思う。
一番嫌なのは、書かれてる内容と私の行動、心理が一致しない時「私が間違った選択をしてるのか?」と疑念を抱いてしまうこと。その意識が大変うざ面倒くさい。
私の選択に間違いなんか無い。誰彼の選択肢も、間違いは無い。
例えば車に轢かれたら、それ以降ものすごく注意してチャリに乗るようになる。だからその日外出した事は凶ではない。
スポーツの予定を立て早朝出発したら階段から落ちて捻挫してキャンセルする。それ自体は痛いし悔しいけど、行く途中で何かに遭遇するとか、スポーツで事故るとかを回避したのかも知れない。
とあるセミナーに金をつぎ込みある程度学べたが、そのグループ内での違和感から依存搾取の関係を看破すれば、今後同じ類の狸には二度と引っかからない。
そういう実験と学習と繰り返しで人は大きくなっていく。
だから何を選んでもいい。その時点で心が赴くままに。
未来を予測するのは、失敗を回避する運動だ。
でも失敗は存在しない。長期的に見れば失敗ではない。
刻んだネギを床にばらまいてガックリしても、「あ、ウッカリしてた。疲れてるのか」と判断材料にして休むだけで。ウッカリ状態でそのまま頑張るとろくな事が起こらない。
だから、これを選んだら失敗だろうか、とか逡巡するのは無意味だ。選べば粛々と道が拓ける。そうやって進むんだ。それがやっと理解できた。
だから、心の向いた方向を阻害されたくない。
いつが吉でどこが凶なんて関係ない。新月に始めて満月に達成するとか関係ない。
新月なのに始められない自分、満月に終わる計画を立てられない自分、そんな劣等感はクソだ。思い立ったその時やりゃあいい。完成しようが途中で放り出そうが、どっちでもいい。
新月までこの短気で飽きっぽいやる気が保たなかったらどうするんだ。せっかくのやる気が!今使うしか無い!ラフでいいから出せ!
暦や占星に因果関係を求めすぎると心が歪む。気ままに暮らしてる筈なのに縛られる。
自分の気が向いた時、それが好機ってだけで、外枠が言うことと違ったっていいじゃん。
本来なら枠にはまらない筈だ、誰しも彼しも。個人にカスタマイズされた星があるのだから。
(占星術やらを頭から否定してるわけでは無い。ミクロコスモスとマクロコスモスは照応するから。)
星座も旧暦も面白くて結構調べて本も読んで、色々な見方をすると分かった。それで十分。
「色々な見方をできる」ようになるまでがステップだった。その見方さえ会得すれば、知識はもう不要。
グレゴリオ暦とか太陰暦とか、色んな計算を昔の人が頑張って、夏、殷の時代から始まり、巫覡や陰陽師がいて。将軍が名を上げるために無理やり新たに計算方法を作れと命じて結局失敗したり(いつの世も変わらねぇな)。紆余曲折して変化していく。由来の無い占いが江戸のカレンダーで流行って、それが現代に続いたり、江戸から明治になる時庶民が西洋の暦を押し付けられて、現代日本は歪んだ暦だとか。
一体俺たちは何の上に立っているのか。
時間さえまともでない。決められてるから確固たるものと思ってるだけ。
何が真実で嘘なのか。しっかりした土台なんか無い。ふわふわした中空に浮いてるだけだ。
でも、探すなんて無意味だ。知識も歴史も嘘が沢山混じっている。だったらこれだと思うものを選ぶだけでいい。それが「正しい?」のかは、勿論「正しい!」のだ。自分の選択したことなら。
初めて付き合ったモラハラは死ぬほど嫌な思いを散々した。その後付き合った二重人格の人も結構恐ろしい思いをした。
でもその選択を十分に咀嚼してめちゃくちゃ賢くなれたから、それは結果的に凶ではなかった。
だから、もし友人がどっかの宗教に入ると言い出しても止めないし、変な男に捕まっても止めない。それは本人の自由意志で選んだなら、きっと本人にその体験と咀嚼が必要なのだ。
各自ふわふわの中空でのびのび生きていきましょう。ここには地面なんて無い。信じるのは己のみ。
昔先生に「確固たる地面なんて無いよ、浮いてんだ」と言われた時、私は不安で不安で泣いた。確固たるものが欲しかった。でも要らねえわ。大丈夫。今全然欲しくない。
先生と臨済さんにやっと追いついた。嬉しい。ずっとチマチマ山登ってたら、いつのまにか眼下に雲海が広がってた。