自分のことを綺麗って

自分のことを綺麗って、思えるようになってきた。魔法のような本当の話だ。本当に本当に本当に、今までならあり得ない話だ。

(醜い顔の呪いと脱却 - どこにでもいてどこにもいない
前段:ここに書いたように、酷いコンプレックスを持っていたのだが…)

 

先日誕生日だった。パートナーはその前日だ。連番なのだ。とても形質の似た、だが似て非なるthe蠍座同士である。(蠍については石井ゆかりさんの12星座本が最も適切な説明だ。)

誕生日はパートナーの日から一緒に過ごす為、日付が変わるタイミングでおめでとうと言ってもらえる。そして生まれた瞬間の赤ん坊に帰る。

ここに書いたか覚えてないが、過去は幾らでも変化させられる事は自明の事実だ。思い出して寄り添う。そしていたわり、慰め、抱きしめる。すると過去は形を変える。歪みを正した状態で私の中に在り、その正しい在り方が現在の悩みを消して行く。

自身は一般的家庭を形成するためポーズとして生まれた子供だったから、面倒と思われる事こそあれ、喜ばれた事は無かった。それは言語化出来ずとも子供ながらに体感で理解しているし、確実に成長に影響する。

それを打ち消すのが、「生まれてくれてよかった、ありがとう」という祝福。特にパートナーとはお互いに人格形成が激変する出会いだったので、出会わなければ苦しい日々が長引いただろう。

その祝福は私も相手に日々伝えるし、相手も然り。ただ誕生日はその威力が強まるようだ。過去に手が届きやすくなるのは感情の振れ幅が大きい時だ。

今年も赤ん坊の私は祝福してもらい、ほんとに?ほんとに?と聞きながらぼたぼた泣いた。乾燥した大地に優しさがしみこんだら誰だって泣きたくなる。飢えて死にそうだった所に降り注ぐ雨のようなものだ。

ほんとに?と聞くのは疑った回数の多さがそうさせるのだろう。自分の事ながら気の毒なことだ。

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(足りないなら何度でも、その応酬をする事だ。1人なら自分が自分に。「(生まれてくるのを)待ってたよ、あなた(私)のことが大好き」と言ってあげる、奥底から真心込めて。

「この世に私を待つ人がいるわけない」と言う人も居るだろうし、何より自分もそうだった。悲観に浸る事で目を逸らしたい。希望があると絶望するから先に絶っておく。

人はなぜこの世に生まれるか?というと–答えは「喜びを体験するため」である。これはもう事実として確定させても良い位核心だと思う。

そういう設定をされている以上、人は苦しみの中で生きるよう作られていない。苦しい体験を消化、適切に対応すると、マイナスの体験がプラスの体験の増幅装置になってより味わい深く楽しめるようになる。)

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0時をまわりその問答を終え、風呂に入り髪を乾かし、ふと感じた。

私は可愛くて綺麗なのではないか?という発想が、急にふっと閃いた。過去、写真や鏡を見て何度も絶望していたのに?

親と弟に何度もしつこく貶され嗤われた回数と質を、自分が褒め、先生に褒められ、パートナーに褒められた回数と質が、ついに超えた。乾燥して飢えて死にそうだった大地に雨がざんざん降り注ぎ、ひたひた染み込み、そしてやっと芽が出た。親に植えつけられた精神を喰らう雑草ではなく、自分オリジナルの芽が。

だから驚いた、その芽の姿に。そして自然にそれを受け止めている自分に。

言われた事を[内面化]する、とよく言うが、貶し言葉を内面化するという使われ方をよく見かける。でも逆もあるんだ。寧ろ逆が正しい教育であり、ようやくこちらの道に接続できた。

こんな未来に接続するとは思わなかった。こんな今は想像だにしていなかった。どれほど私の心が回復しても、外見に関する傷は無理だろうと思っていた。

この世に「無理」というものは無いのかも知れない。物事に限界は無いのかも知れない。鍵はまだいくつか閉まってると思い込んでて、意外と既に開いてるのかも知れない。

自分の伸びしろが既に自分の予想を超えた。もっと良い想像をしていけば、それも越えるのだろう。謙虚禁止で図々しい位が丁度良い。

先生と出会って5年、パートナーとは出会って3年。5年かけて覆した。この認識の改めはよりスピードを加速させるだろう。どこに連れて行かれるかもう検討がつかない。手綱をチャイルドに渡したい。