花の言語、居るだけで良い話

先日ジャスミンの苗を買った。

前置きが長くなるが、私は花が嫌いだった。

 
子供の頃から花の美しさが理解出来なかった。少女漫画ではキャラクターの後ろによく描かれている。綺麗と言われてるもんで適当に穴埋めしてると思ってたし、絵画によく花の絵が描かれているのは(なんで皆そんなに花を描きたがるんだよ…)と思っていた。
花がというよりは、一面に広がる一色の不自然な花畑とか、何とか園とかの、ババアとかジジイが鑑賞に来てペチャクチャと「まぁ〜綺麗ねえ〜」と言い合う図が嫌いだった。
それ…本当に綺麗と思ってんのか?とものすごく疑っていた。ただそういう社交辞令がルールだから、皆感動してるフリをしているんだ。そう認識していた。

ただ、桜だけは何となく好きだった。それは桜の形が、とかでは無く「花びらが散る空間」がだ。花見の人間達はどうでもよくて、誰もいない中散っている、そのエリア一帯は神聖な気がしていた。
ジャスミンを知るのはもっと後になってから。確か大学頃。花の名前だって碌に覚えてない。興味が無いから。でもジャスミンは有名だと思う。きっとどこかで名前を聞いていた。アラジンの姫とかね。どこかで香りを嗅いで、これは悪くないなと感じたのだと思う。好きな花は?と聞かれて具体的にちゃんとは理解していないけど、「ジャスミン」と答えることが増えた。
なんでも嫌いから始まる私は香水も臭くて嫌いだった。プンプンにおう人に(くっせぇ!)と思っていた。でも香水とかの話題になるじゃん、大学だから。好きな匂いを聞かれてもよく分からない。店のテスターを嗅ぎに行ってみた。その時唯一「大丈夫、これは嗅げる」と思ったのが、ジャスミンとスズランの香水だった。(オーキャッチのバイオレットキャット)
やっぱりジャスミン、お前だったのか。適当に言ってたけど。ジャスミンは少し特別な花になった。
そういえば花の香りがいい匂いと思った事も無かった。青臭い変な匂いと思っていた。花を嗅いでいい匂いと発言する人間は信用ならん。綺麗事と建前が好きな人間に違いあるめえ。でもジャスミンはいい。「かぐわしい」ってこれのことか。「馬と少年」の都タシバーン、南国の花の香りにピッタリだ。

3年前、先生の薦めで植物を育ててみる事にした。その時選んだ内の1つがジャスミンで、もう居ない。春から育てて夏に成長しまくり、秋に水やりを怠り枯れてしまった。
世話する私が夏で燃え尽きたのだ。うちにはベランダが無いので水をやる時は一旦窓から移動させねばならない。でかく重くなると結構大変で。
その時はまだ精神の変化の序盤で、植物への感覚は鈍かった。
私が居心地よく感じる部屋そのものが、土と鉢植えに相当するというのは面白かったのだけど。

そこから時を隔てて、再び植物を育ててみたくなった。
野菜もやりたいけど、花だ。
花は役に立つか?というと野菜みたいに食べられない。ただ見るだけ。香りを嗅ぐだけ。花は「居るだけで良い」。

私がやっていた仕事は「居るだけで良い」という考え方に当然ながら沿わなかった。勿論仕事は役に立ってナンボだし、そのように適応はしていた。
でも役に立たないと途端に「私の居る意味とは…」と奈落に落ちる。居る事が申し訳なくなる。役立たずが居てすみません。消えた方がいいですよね。役に立たないと居る意味がない。
この考え方がベースだと、自分が役立たずである事を許せない。許せないと自分を責める。なんでこんな事もできないの?!できるようになるまで無理して頑張る。
そしてさらにできる人を羨み嫉妬し、できない人をバカにしたり嘲笑うルートと密接に絡み合う。そっち側の分岐に入る可能性が高まる。

脱するなら、できない自分を許容しないといけない。「居るだけで良し」がこれだ。
生きてそこに居るだけで、もう十分です。
その中の1つが花だ。花は咲くだけで存在を許されている。食えない。鑑賞するだけで。
言ってみれば苔だって雑草だって、特に許容されずとも、勝手に生きて勝手に咲く、成長する。

それでジャスミンを買ったのだ。長い前置きだったが、居るだけでいいって、どういうことか知りたかった。

ここからちょっとファンタジーな話になる。実話だけど。

蕾がたくさんある元気そうな子。
植木屋さんには、この時期のジャスミンは早熟で、今蕾ができるように時期的にはかなりズレて育てられていると言われた。
薬をかけられて、まだ寒い時期に蕾をたくさんつけている。
その姿は同情を誘った。共感もした。辛かったのかな、とか。無理したのかな、とか。

ツタが1本伸びていて手提げに引っかかっていて、それを間違えて握ってしまった。茎がグネッと曲がってしまい、慌てて謝った。ごめんね!大丈夫?心を傾けた瞬間、

ブワッと、何かに包まれた。幸せの塊のような、涙が出そうな優しさ。
《大丈夫、問題ないよ。連れていってくれてありがとう!一緒にいられるね、嬉しい!嬉しい!嬉しい!》
歓喜の渦のような、喜びのエネルギーが大量に発生したエリアに足を突っ込んだみたいな。
半径1mを喜びに包まれてる感覚。
こんな言葉を直接聞いたわけではないけど、喜びの声なのはわかった。それを人間語に翻訳するとなんとなく《》ぽい、と思った。
スーパーのパン売り場の前で立ち尽くして、泣きそうだった。
一緒にいる事をこんなに喜んでくれるのか。私に買われて、それを嬉しいと言ってくれるのか。
この子は喜びの子なんだ。
生まれた事を喜んでいるんだ。
そして愛してくれる。居るだけだけど、一緒にいる事を喜んでくれる。
それは無償の愛だと思った。
役立たずだけど居ていい、この式は成立するんだ。
(愛をくれるから役に立つ、という後付けも成立してしまうが、それは目に見えないものなので一応ノーカウント。目に見える役立ちに囚われてるから。)

それからはこんなに鮮明に声?が聞こえる訳じゃないけど、美しい香りをくれたり、退屈しない。一人で居る時に話しかけたりする。
同居人が増えた。(見えない住人も居て、それについても今度書こう)

あなたが生きて、居るだけで嬉しい。一緒に居られて嬉しい。そんな風に言われたら、惚れるし泣くしかない。心が結びついたら、そこが拠り所になる。居場所になる。
だから一見嘘くさいけど、居るだけで良いって言葉は、建前でもなんでもなく。有ることなんだ。
遠い世界の言葉ではない。頑張ればかなり近くまで行けるし、そのものにもなれるかも知れない。

そして、人に心から言えるように。

因みに花を見かけると、咲いてよかったな!と心の中で声をかけるようになった。
花を嫌いではなくなった。好きになってきた。

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