三峰神社にいる神様と穢れ

私の個人的感覚なので、信じてる人の邪魔をしたらすまんね。ただ、とある別の人も同じ感想を持ったと間接的に聞いた。

結論から言うと神聖な何かは居る。
本殿の神様と眷属は確実に居るように感じた。
だが弱体化している。
観光地化されて、大量の人間がお願いにくる。周りも杉林の人工林。おそらく山の循環が阻害されている。神様は人に消費され、細々残った気脈から命(という表現が正しいか分からないが)を保つ。
12国記に出てくる「穢衰」だっけ?がとても近い表現なのではないか?と思った。

人工林でぐぐると「死んだ山」という表現が出てくる。台風などで山崩れが起きるのが不思議だったが腑に落ちた。人工林には保水力が無いのだ。
杉苗木寄付の石碑がずらっと立ち並ぶ。スタッフロールに載りたい人の気持ちと似ているのかも知れない。杉苗以外にも寄付の石碑が大量にあった。自己顕示欲を感じた。
太く育った杉は写真なら荘厳に見えるかも知れない。だが、訪れた私は杉が無言なのがとても気になった。圧迫感がある。

最近通勤の時や公園など木々を通り過ぎる時、挨拶などをしている。これは大真面目に。心が通じてるのでは、と思っている。
木にも気配がある。側によると、触ると、体感温度や空気が変わるのを感じる。元気そうだったり無言だったり様々。

こんな山深い場所で都会的な地域とは無縁で、さぞ過ごしやすかろうと思っていたが、なぜか息苦しい。
それは作為的に留め置かれ、ずらっと不自然に均一な杉が原因なのではないか。
通勤時に通り過ぎる川の近くや学校に生えている木々の方が、スケールは小さいものの、よほど喜びを感じる。

そして本殿前のものすごく太い幹を持つ樹齢何百年?というご神木は、人々が手を当てた跡でぺっとりしていた。(1人になれない場所で大木を触っても、人によってアンテナが塞がれているので正直何の感慨もわかない。)
その前には賽銭箱が置かれていて、お賽銭を入れないと触ってはいけない、とも取れる配置だった。

そう、ここは金の匂いがする。
絢爛豪華な建物で、塗り直しなどもされている。
客も多いがスタッフ、宮司と巫女さん?も多い。
月一度「白いお守り(うろ覚え)」を限定発売し、バスで50分かかる山中の道を渋滞で埋め尽くす騒ぎになるそうだ。
それ、そんなに欲しい?
白と色違いの黄色とか青のお守りは普通に売ってたけど、白を作る事がそんなに大変なの?
何が違うか到底理解できなかった。

白いお守りを限定発売する姿勢に、ありがたみを感じない。礼拝の道は常に開かれている方が、神社としては真っ当だし、それは普段からそうなはず。白がどうとかではなく、心のあり方の問題。
人為的に貴重にして渋滞にして人に無駄足を踏ませる。
「同人などでわざと部数少なめに刷って長蛇の列並ばせておいて売り切れにし、その後本の値段が高騰するタイプの人気者を気取りたいそれなりに人気のある人」と構図がかなり似てると思った。

それは人間的なイベントなのかも知れない。それを入手する事が「勝ち」で、幸先いいような気分になれる。でも人の幸福はレースではないし、運試しでもないし、それぞれに見合ったスピードがあるし、と考え始めると、この神社の考え方とは全く合わない自分が見えてくる。

御仮屋という社で凛としたので、狼は居た。
本殿にも多分居た。ぶわっと涙が溢れてきたので。
摂末社の犬?の石像はとても愛らしくて好きだと思った。
でもそれ以外何も感じない。

部屋にチェックインしてから、ずっとコツコツいう音が聞こえていた。何か窓にぶつかってる様子もない。あまり気にしないでいた。神域だし何も居ない事はないだろうと。
風呂に入った後、懐中電灯を借りて真っ暗闇の境内に行ってみた。虫の音は聞こえるが、しんとしていた。

夜になると音の種類が増えた。
ジュルジュル、ベロベロ、ガサリと地面を踏みつける、生っぽい音だ。5階なのに。お世辞にも綺麗な音ではない。獣のようだった。私は野生動物を尊敬しているから敬意を払う。あえて「下品な獣の音」と言いたい。
それはエスカレートしていく。どんどんうるさく。狼なのでは?と期待した節もあった。その期待が隙となったのでは?
初めは気にしなかったが、さすがに怖くなっていく。隣の部屋に泊まっている人達、何も聞こえないんだろうか?
弱い電波で必死にググった。「空っぽの社に狐が住み着き、神様のふりをしたりする」というストーリーもあるようだ。
空っぽではなかった。確かにいる。だが弱い。ならば隙をつこうとする紛い物も多かろう。弱い電波ながらも先生に教わった。
願いを念じる時、頭の上の蓋が開く。それを利用して取り付こうとした物がいたのではないか?そう思うと恐怖が強まった。
見えない者に対応する時、恐怖してはいけない、という逆説的対応がある。
怖いに決まっとるやんけ!
そして翌日バスで下山するのに、睡眠が足りなければまた乗り物酔いする不安が増幅していく。行きは酷く酔い吐く寸前だった。
最近家の裏と表でダブルで長期間工事をやっているせいで睡眠不足が慢性化していた。山奥で静かに眠れる事を期待していたのにこの始末。
深夜2時頃になって流石にキレて、うるさい!と心で強く念じた。
一時大人しくなったが、またうるさくなって、そして突如ジョボボボボボ、という窓ガラスにおしっこをかけられたとしか思えない音が。そのあと下痢のようなビチビチした音。
その下劣な音で、どーしよーもないやつだと正体を確信した。

全てを無視すると決めて耳栓し寝た。浅い睡眠だった。
食事について書くのを忘れていたが、神社は寺ではないため?精進料理ではないのだそうな。
その括り方で正しいかはちゃんと調べていないが。
だから普通の旅館のようなご飯が出る。普段は安宿の素泊まりで何の問題もなく、適当にお店に食べに出かけるタイプなのだが、山中なんの店もないので珍しくご飯をつけてみた。
…殆ど食べられなかった。
添加物や遺伝子組み換えなどの糖類油脂を抜く生活に慣れた舌が受け付けなかったのだ。原料表示がなくとも舌が判断してくれる。
焼き魚と米だけは食べられた。ご飯付きの宿代はかなり高い。素泊まりにしておにぎりでも持っていけば良かった。ものすごい後悔した。
といっても私は少しでも贅沢がしたかったのだ。
きつい仕事中もずっと自炊したし、より体に入れるものに気をつけた。
だから旅行中位据え膳をやりたかったのだ。
とんだ誤算、というかそんな可能性も考えてはいたが、単に賭けに負けただけだ。

元々霊感は無かった。だが聞こえてしまった。
この変化、食事が関係する所が多いにあるのでは?と疑っている。
食材、調味料の素材から気をつけるようになって、体が純化(と言って良いのか分からんが)したのではないだろうか。
だから寺の料理が精進料理というのは頷けた。

翌朝、御仮屋の社に行った。狼の力を借りて払って帰る。あの汚い音を家に連れ帰るなんて想像もしたくない。
苔むした石像を触るとひんやりして心が落ち着いた。そこは護られた場所だと改めて感じた。
お祓いなんぞ完全に我流だ。光で体を洗うようなイメージをして、お礼をした。

帰りのバスは運転手さんに「酔うからソフトな運転にして下さい!」と図々しく頼んだ結果、色々話しかけて貰えて何とかしのげた。ご親切にありがとう。
(バス会社としては神社繁盛は経営と繋がるらしく、人為的ありがたみについては賛成派だったので意見は合わなかったが!しかしありがたい事に変わりはない。)

踏んだり蹴ったりの旅だった。どうにか帰宅し、ぐったりした。部屋の四隅に盛り塩をした。


長いから一旦切るか。続きは生霊編へ。