精神的遺伝子

まとまってないけど最近考えてる事の草案みたいなやつ。

前提:血縁関係だが分かり合えない人が居る事実。
「家族は仲良く」という理想はあくまで建前であり、この論にそういった綺麗事は持ち込む余地を持たない。

結婚は血縁でない人が融合する契約。血縁でない者同士が融合するには精神的な結びつきが不可欠で、仲が深まると結婚に至る。もしくは親友としての関係を築く。

精神的遺伝子が遠く(もしくは近く)、融合することでバランスが取れる人がカップルになる。
その二人が子供を作り育てる。さてその子供が親と同じ価値観を共有できるか。これはまた別の話だ。
精神的遺伝子は肉体の遺伝子と相関関係を持たないように思える。
勿論同じ環境で育つ事により、価値観が似る場合もある。これは肉体と精神の遺伝子がほどよく問題ない状態に「先天的に」在ったから、のように思える。
おそらくこういう家庭は多いし、一般的なのだろう。
一方家族間に決定的な溝が発生する場合も多い。「毒親」「ニート」など。
深刻だし外に出にくいつらい問題だ。
勿論発生には多様な原因があるが、その根源は精神的遺伝子の決定的な「差」があるように思う。
「血縁関係だが分かり合えない人が居る事実」というのはここだ。
家は針のむしろのようだが、学校に行くと何でも分かり合える友人がいる、という場合もある。
家にない親密な関係が外にある。ここに家というのは物理的な体の置き所で、精神的な安らぎは外にある構図ができる。

ここで精神的な繋がり(精神的遺伝子)を外に求め、外の人と結婚という融合をするのは理にかなった仕組みと分かる。
ただ子への伝達は全くうまくいっていないように見える。(問題のある家庭だけをみるとだが)
多く見積もって半分が問題ない家庭とすると、残り半分は何かしらのエラーのある家庭だ。
どちらの分類でも人間は「今日は上手くいった」「まずまずの関係だ」「こんなもんか」など一時楽しかったり、誤魔化したり焦ったりしながら生きて死ぬ。
おそらく問題ない家庭とエラーの多い家庭の違いは「喜び」「不快」の割合が著しく違うはずだ。

「笑うと善玉菌が増える~云々」と科学的な事を言うつもりはないが、悲観の檻の中にいると鬱になったり病気になったりする。人間としての機能がまっとうできない。
ということは人間の本分は喜びながら生きる事にあると思われる。

喜びも不快も精神だ。つまり肉体の上に乗っかった見えない精神こそが人間の本質だと言える。肉体は入れ物だ。

肉体的な遺伝子はただの入れ物としての系譜なのかな。(肉体の重要性はここでは割愛する)

肉体的遺伝子と精神的遺伝子は全く違うものだ。
家族なのに決定的溝がある事は多い。
すると精神的に通じ合う人を求める事になるのだが、これは目に見えないから感覚で探すしかなくて難易度が高い。
私達のまだ知覚できない所にそういう遺伝子が組み込まれていて、思考とか振る舞いとか気遣いとか作品とか、そういうものに共感できると精神家族的に仲良くなれる気がする。
それは物理的な「肉体的家族の家」ではなく、精神的な寄り所になる。肉体的家族が精神的な寄り所にならない場合、家に居場所が無い状態になる。これは人と一緒に生活しても各自の先天的な精神が寄り添わないからだ。
やはり元来精神には先天的に差がある。差、違い、方向性。

この精神的遺伝子の差、一体どういう発生の仕方をしてるんだろう。
今の所ランダムにしか見えない。法則性なんてないのか。
人間を群体として考えると、色んなパターン作って生き残り作戦をやって、戦歴が多くて戦い抜いた精神的遺伝子ほど柔軟で強い。
だがその子供が全く違う精神を持っている場合もある。
なぜなら先天的遺伝子はランダム発生だから。
そして家族の遺伝子タイプが違うと物理的な家に差が発生する。
居場所ができない可能性が生まれる。とするとものすごく不毛な生存になるのだろうか。生きた意味を何に求めるかだけど。

「こう生きたら安全」というテンプレが日本にはある程度あったけど、それはもう崩壊している。
多分マジョリティが多くなりすぎている背景は、色んな角度を向いた精神を一方向に向けようとし過ぎた結果な気がする。

そして色々頭でっかちな事を書いたけど、私自身が次はどの世界に転がろうか悩んでいるのだった。